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2010年1月 9日 (土)

アルトマンという選手の話。

自分は正直野球は詳しくないが、あるところでジョージ・アルトマンという選手の話を聞いた。

George_altman_autograph ジョージ・アルトマン(George Altman)
アフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーだったアルトマンが、日本のロッテオリオンズに入団したのが、1968年。自分がまた小学生の頃の話だ。入団一年目に打率.320 34本塁打 100打点の好成績をあげ、その後も活躍し、常に20本以上の本塁打を毎年記録していた。1974年には6試合連続本塁打のリーグ記録を樹立、まさに主砲中の主砲だった。

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【ロッテ史上最高の外国人選手】

勝負強いその打撃は文句のつけようもなかったそうだが、日本に来た時にはすでに35歳という選手としては高齢だったこともあり、走塁や守備は得意ではなかった。しかし、とにかく一生懸命全力で走る姿は皆に愛された。 大差がついた試合でも全力でプレーし、凡打でも全力疾走をし続けたその姿は、相手チームからも敬意を持たれたそうだ。

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【足長おじさん】

Asinagaojisan  私生活でもそのマジメぶりが有名だったそうで、酒・タバコなどの嗜好品はいっさいやらず、東京スタジアムにアルトマン・シートを設けてファンを招待したりと、その197cmという大柄な風貌と積極的なチャリティー活動から「足長おじさん」というニックネームで愛された。そしてどんなことがあってもチーム内では不満を漏らさない人格者だった。

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【アルトマンの悲劇】

 そんなアルトマンに悲劇が訪れたのは1974年。この年、アルトマンが所属するロッテは熾烈な優勝争いをしていたが、アルトマンの身体には異変が起きていた。彼は癌(大腸癌)に冒されていたのだ。出血を繰り返すが、アルトマンは人には告げずに我慢してプレーを続けていたが、ある日彼は試合中グラウンドで気を失い倒れる。結局彼はシーズン途中に手術をすることになったが、85試合出場、癌に冒されながら打率.351、21本塁打と素晴らしい記録が残った。

 その年ロッテを退団するが、彼の野球への熱意は冷めず、42歳という高齢で病み上がりながらも、阪神タイガースに入団テストを受けて入団することになる。その年は打率.274、12本塁打という成績を残したが、自分で納得のいく結果が出せずに、ここで彼の野球人生が終わる。

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【アルトマンのファインプレー】

前置きがもの凄く長くなった。言いたいことは意外と短い。アルトマンのファインプレーという話がある。1970年の日本シリーズでの話だ。

 巨人3勝とロッテ1勝で迎えた第5戦。
巨人森選手が打ち上げたフライをレフトのアルトマンとショートの飯塚選手が追う形で、二人は全力疾走したまま激突。197cmの巨体と衝突した172cmの飯塚は、その衝撃で倒れて意識を失い、打球は外野へ転々と・・。
 しかし、アルトマンは、打球を追わなかった。

意識を失ってしまった飯塚を抱きかかえて必死に呼びかけ、介抱したのである。その間にランナーは生還して決勝点となる1点が入り、打った森も三塁に達した。結果としてこれでロッテは敗退し、日本一の座を巨人に譲ることになる。

 だが飯塚を介抱したアルトマンの姿に相手チームの川上監督も「素晴らしいファインプレーだ」と絶賛したそうだ。もちろんファンも彼のプレーを讃えた。アルトマンの伝説のファインプレーは多くのことを教えてくれる。

 近頃、自分の責任にまわってくるのを恐れて、救急車に連絡しなかったり、もみ消そうとしたことがばれ、人間失格のような扱いを受ける芸能人もいたりする。アルトマンは捕球ミス・チームの失点、ひいては日本一よりも、チームメイトの身体をなによりも優先したのだ。「目の前の失敗」から逃げない男、「今何を一番に優先すべきか行動した男」として語り継がれる伝説となった。

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